良くも悪くも遺産でしのいだ将軍 こんな感じなので当然ながら将軍としての評価は低く、常に側近に助けられて政治を行っていた。
第2代将軍:徳川秀忠(とくがわひでただ) 家康の実子。
彼の死により、徳川宗家の血筋は絶える。 お江与ははじめ尾張郷士・佐治与九郎と結婚しましたが、秀吉に見つけ出されて政略の道具とされ、羽柴秀勝(秀吉の養子)、九条道房を経て徳川秀忠の妻となりました。 ちなみに、関ヶ原の戦いに勝利し征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いたのはそれより12年前のこと。
1人返し令• 秀忠の娘である徳川和子は徳川幕府と朝廷の天皇を縁戚とする政略結婚を行いましたが、この婚姻によって、徳川将軍家が天皇家と婚姻を結べる高貴な武家最高位の家格であることが公認されることになりました。
立ち振る舞いは大人顔負けであり、幼いながらも自身の立場を理解し、家臣とともに政治を行っていた。
俗物将軍と呼ばれた彼の散財により、江戸幕府の財政は年々傾く一方でした。
これで、生類憐みの令を行った将軍は?といわれれば、「生」の字を見て(生のツナはよしな!)ツナ・・・?綱吉!と答えれらるはず。
その結果、1825年(文政8年)江戸幕府は「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)を出し、日本全域の諸大名に、来航した異国船を追い払うように命じました。
1三成、じいさんに負けて悔しかっただろうな…。
家治(10代将軍)• エロガッパめ。
それにしてもそんな苦しい体勢でずっと眠っていたかと思うと不憫です。
徳川家康 いえやす … 江戸幕府を作った• 勘定吟味役 10. 父の徳川家斉とは確執があり、子の徳川家定の将来を心配した徳川家慶の人生は、父と子に悩まされた人生だったと言えます。
徳川家慶 いえよし … 「そうせい」• 生まれながらにして、偉大な父親の背中を追うことになりながらも、4代将軍として任務を全うした徳川家綱の政治的指導力。
もう地味な二代目なんて言わせないぞ! おまけ。 戊辰戦争敗北で、江戸城無血開放を指示した。 水野忠邦(みずの・ただくに)• 徳川吉宗 よしむね … 暴れん坊• 徳川家慶の政治力は高いとは言えませんでしたが、人物を見る目の確かさと、決断の早さには非凡なものがあったと言えます。
とはいえ、吉宗の遺産や側近のおかげで、 大きなやらかしもなく将軍職をまっとうした。
生類憐れみの令制定• 江戸城には唯一入っていない将軍でもある。
これからも家康に見守られながら、徳川家は力強く繁栄していくことでしょう。
>>徳川歴代将軍 徳川歴代将軍 1 1603年~ いえやす 関ヶ原の戦いで勝利し江戸幕府を開く。
徳川家康 代 1 氏名 徳川 家康 とくがわ・いえやす 在位 慶長8年 1603年 2月12日 - 慶長10年 1605年 4月16日 期間 2年 2か月 享年 75 生誕 天文11年12月26日(1543年1月31日) 死没 元和2年4月17日(1616年6月1日) 出身 将軍家 墓所 久能山東照宮 日光東照宮 大樹寺 高野山 肖像 メモ• 第6代将軍・徳川家宣の四男• (徳川慶喜家第2代当主)• 徳川家慶の嗣子は徳川家定のみでしたが、徳川家定は病弱で気も弱かったため、日本に迫る列強諸国のことを考えると、将軍として役目を果たせるか不安に思っていたのです。
この間、の実質上の・支配者として、武家社会を含む日本全体の頂点に君臨した。 サツマイモの栽培• ()- 光貞 - 吉宗(8代将軍)- - - - - - - 家茂(14代将軍)• 歴代トップクラスの文武の才があるといわれていたが、そういう人ってだいたい難しいよね。 六男の 松平忠輝(ただてる,1592-1683)は長沢松平氏の家督を相続したものの家康との関係が悪く、大坂夏の陣での失策によって秀忠の激昂を買い改易されます。
91792年(寛政4年)、ロシアの「ラクスマン」が、ロシアに漂流した「大黒屋光太夫」(だいこくやこうだゆう)を連れて、(ねむろ)に貿易を求めて来航。
徳川御三家尾張徳川家: 九男の義直 紀州徳川家: 十男の頼宣 水戸徳川家: 末っ子の頼房 (TVでも有名な徳川光圀公(水戸黄門)は頼房の三男です。
錦絵(浮世絵)• 自分で料理をして食べるのが好きで、そのときは家臣達にも作った料理を分け与えていたとも言われています。 藩政改革 13. 桜田門外の変(大老・井伊直弼 暗殺)• 和子の入内によって武家の徳川家は実質的に公家の五摂家と同格以上の家格として取り扱われることになりますが、明正天皇の即位以後は幕府の政権は『朝廷の直接的な政治利用』を必要としないほど磐石のものになっていったのです。
17もうなんかボロボロの将軍である。
1位:徳川慶喜(15代将軍)…約1年• 関ヶ原の戦い• 初代将軍となった徳川家康と2代将軍の徳川秀忠以降は、徳川宗家や御三家の代表者が征夷大将軍を襲名することになり、徳川将軍家は朝廷に大政奉還をした徳川慶喜まで15代約260年にわたって続きました。